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伊達政宗から浅野長政への絶交状 経緯と詳細

概要

政宗は、奥州仕置より指南役だった浅野長政(長吉)に、絶交を申し渡しました。その経緯、内容、訣別の真の理由について見ていきましょう。

経緯(いきさつ)

秀次事件

豊臣秀吉豊臣秀吉朝鮮侵攻停戦中の、文禄四年(1595)七月、関白豊臣秀次秀次が二八歳の若さで死去。

この失脚事件は、やがて秀次と昵懇(じっこん)であった部将たち――最上義光浅野幸長浅野幸長細川忠興細川忠興伊達政宗伊達政宗らにも及び、共謀の嫌疑をかけられ、その糾明が始まりました。

浅野幸長は、妻の姉が秀次の妾だったことから。また秀次の家臣・栗野秀用は、以前政宗の家臣であり、政宗は秀用を通じて秀次に接近。しかしこの度の事件で、秀用は自、政宗は陳弁のあと許されました。

これら部将はいずれも反石田三成石田派の大名たちで、三成の反対勢力が大々的粛清されました。

幸長は能登に流す留められるも、幸長の父である浅野長政浅野長吉(長政)も同時に蟄居することになり、しばらくの間、政権の中枢から離れることになりました。

会津没収

翌年七月一二日に起こった大地震の際、長吉は誰よりも早く城に駆け付けたので、秀次事件以来の勘気が解け、次いで幸長も許されました。

その時期を見計らって政宗は、奥州仕置より世話になった浅野長吉(長政)に対して同八月一四日に絶交状を突き付けました。

「今より以後は貴殿へ参事も、また申し入れ事も一切止めます。もっとも御指南頼み入りません。」

政宗は政権内の和久宗是(わく- そうぜ)をスパイとして情報収集する策士。奥州仕置の流れで会津没収され、米沢城主だった政宗は岩手沢に移る結果となり、政権に対しての堪え難きを堪えてきたのも事実でした。

絶交状(前半)

『伊達家文書之二』抜粋[文献]より、当サイトによる現代語訳。

会津領の進上

「正」宗と署名

一、二年前(天正一九九戸の乱平定後)、我等の知行(会津領)が理由なく、上意へ進上すべきことに不服でした。それなのに貴殿(浅野長吉)は、この事を御指南されると申されました。

「(政宗公が)万事深く頼まれても、何ヶ様の事かと異存無くとも、上意の御重恩など数度こうむり一代の内に、是非とも御奉公と勤番されても、知行指上げです。裸足の体(てい)では何を考えても、御奉公はいよいよ届きませんよ。」

知行を指上げろと言われれば、仕方がないところ。(それでも私が)「何をもってその折に、知行進上を命ずるのですか」と尋ねれば、(貴殿は)しきりに様々仰せられるので、あまりに不審と思いました。さては(誠に)上様のお考えかと疑いました。

(貴殿は)さように厳しく責め、(私は)とにもかくにもと口論になりました。「さらば思い通りにお書きなされ。」「しかしどのようにして我等心中、思い寄らずことを書きましょうや。」「異見合点したので、是非とも。」と(貴殿は)無理に(私に)書かせお取りになりました。

その文(天正一九年十月四日付 正宗(花押))[] は、いまだにお返し無く、手前に留め置かせてください。右のことは(貴殿が)聚楽にて金吾殿(館)へお成りの時、図らず披露されたと承っています。しかれども上様ことごとく斟酌をもって、(私の)身の上に異議ないことだったとのこと。

文禄の役

心尽くしの抜け駆け

先年、高麗晋州の城を取り巻く時、専一御奉公(と思い)また(子息の)左京殿(浅野幸長)と同陣でした。事始めにしたことは、左京殿の御手柄にもなればと、色々心を尽くし、別して申し合わせました。

一夜の内しより共に仕り、既に石垣を取り崩すべく計らいに押し詰めたところに翌日、貴殿が御覧になって、以ての外と御しかりになりました。

そのため攻撃を中止して引き揚げたので、諸陣から「あれを見よ、弱気になって引き退いた」と味方にも笑われ、政宗は大いに面目を失いました。せめて帰朝したとき、御前において貴殿が執り成しをしてくれればよさそうなものを、一切そのようなこともなく冷淡でした。

恵んでやった扶持米

高麗において、我等の作法にも上意より御扶持(米/ふちまい)を下されるところに、貴殿の御指図次第に請取るべしと度々言われました。尤も(それが)各々扶持を請け取る時と承ったので、それに依りました。しかし在陣中にその分の扶持は打ち置かれ、一切下されませんでした。

ところが我等の兵粮船が、着岸仕りにつき、在陣に続きました。自ずと手前の船が届かなかったら、多くの人々が堪忍成り難く、即時に難儀に及ぶべき事、眼前でした(以下略)

絶交状(後半)

前掲書抜粋[文献]より、当サイトによる現代語訳。

秀次事件も遅刻でしたが

去年、秀次の始末の時に承(うけたま)えず、その日に国を罷り出て、白川において貴殿に御目にかかり、同道にて上洛しました。しからば大坂にて我等の事を御詮索の時分に、前田利家利家より薬院への書の中に "浅野長吉は特にも上洛申すべきを、政宗を待って遅くなる" と書かれました。

貴殿はこのようなことを利家へ言わなかったら、いかように書かれるのでしょうか。たとえ我等、一日二日遅れることがあっても、いわんやその日に罷り出るを右の理由だと、全く一言にて(私の)身のうえ果てましょう。これまた情が無いことと存じます。

言いたくないけど言っておく

去年(文禄四年七月)御いとまにて(会津仕置のために長吉と)下国(帰国)の道中、知らないことを仰せられ、様々苦労しました。今においても一つ一つ失念していません。

(長吉家臣)八島(久右衛門)を以って承った四、五ヶ条の儀は、そうは言っても仰せられるべき儀にはない(政権による領国内の金山支配)ことが多く、書付けられません。

八方美人め

…(葛西・大崎領の新領主)木村吉清ととりわけ御懇切…また蒲生氏郷蒲生氏郷とも懇意で、私を一切引き立てず氏郷に味方した…(文禄五年閏七月十二日の)大地震の直後に伊達家家人が木下勝俊島津義弘島津義弘の屋敷の前で殺害されたが、取り持ちを頼んだのに未だに糾明してくれない…

御指南頼入まじく候

自ずと私ども以来、倅など御指南を頼み申しましたけれども、一日も進退立ちません。万事について頼もしいことが無かったです。…大体小田原以来、何事にても貴殿に取り成しを仰いだ覚えがありません。

ということで、大体知行など申請したいと頼み入りしたことは無かったです。無き故人たちは些細な讒言(ざんげん)さえ一途仰せられなかった分、ただ上意御重恩までを以って我等は身上相続しました。

…今より以後は貴殿へ参事も、また申し入れ事も一切止めます。もっとも御指南頼み入りません。

決別の真の理由

上記の通り絶交状は大変長く、長吉に対する積年の恨みつらみが綴られています。

長吉も人間ですし、落ち度が全くなかったとは言いませんが、政宗のほとんど言いがかりです。何故、このようなものを書いたのでしょうか。

文禄三年二月、政宗の子息兵五郎(秀宗)二歳は、豊臣秀頼豊臣秀頼の臣従として、はじめての任用に選ばれましたが、実際は人質でした。秀頼に臣従するということは、淀殿淀殿―三成の手中にあり、政宗は長吉を見限って権勢長吉を凌ぐ三成に寝返ったと考えられます。

補註:弾正宛て政宗書状

" 書付けのため申し入れます。直にお話します。今度も上様の御恩をもって身上に間違いなく、却って手厚い仰せに存じます。きっと上様に申し上げるべきに違いません。我等一代に御恩に報いるべく分別ございません。只今拙者知行の通り、皆もって進上致します。御小姓な身分として召遣いますように申し上げます。心中の通り直に申すこと、細筆能いません。恐惶謹言(きょうこう‐きんげん)。

(天正一九年)十月四日 羽柴侍従 正宗(花押)"(『浅野家文書』六六)

解説

正宗と署名したのは、せめてのも抵抗か。いざというときに署名したのは正宗であって、政宗ではないと申し開きもできる。また長吉が金吾館で披露したのは、政宗の忠誠心を披露するのが目的だったと推察される。

参考文献

  • 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第十四章 関白賜死」340-341頁、「第十五章 政宗離反」349-360頁

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